2010.10.16.

埼玉県川越市で,第17回石綿・中皮腫研究会でした。
   
会場は,埼玉医科大学かわごえクリニック6Fの大会議室でした。
会長は,酒井先生
 
西村先生と大槻が発表してきました・・・西村先生の最初で,スライドの調子が悪くって,立ち往生! あれまぁ!
会議室一杯の参加者でした,結構,沢山,来られています。



10/15の17-20時に会議があったので,またサンライズ瀬戸でした。
  

車窓の風景です(動画)

横浜駅を発車するサンライズ! → 湘南新宿ラインで池袋 → 東武東上線に乗り換えです。
 



さて,川越の「ちょっと寄り道」/「ブラ@タケミ」ですが・・・
サンライズでちょっと開始時刻より早めに到着しました。
JRと東武は同じ駅舎でした。
東にも西にも町は拡がっています。
そして,このポスターで気付いたのですが,今日と明日は,まさに「川越祭り」ではないですか!!

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まずは,研究会のランチタイムに動き回って見物した,この祭りの様子から紹介しましょう!

「川越祭り」動画

すごい人だかりでした,それよりも山車とそれぞれに踊る様子!結構,迫力ですし・・・面白い,飽きの来ないお祭りで,まる二日,きっと面白そうだなぁって感じでした。

それぞれの様子です,屋台の数もハンパない感じでした。
最初に,山車を見かけて,お囃子が聞こえて・・・それだけでも,感動物だったのに・・。
【歴史 :川越城下の大半が焼き尽くされた寛永15年(1638年)の川越大火の翌年に幕府老中首座であった松平信綱が川越藩主となり町の再興が為される中、慶安元年(1648年)、松平信綱が二基の神輿・獅子頭・太鼓を寄進、川越総鎮守である氷川神社の神事として神輿渡御信綱が行われるようになった。慶安4年(1651年)には祭礼となる。経済的に繁栄した川越商人の町方文化が花開いて、元禄11年(1698年)には踊り屋台が、天保13年(1842年)には商人町と職人町であった城下の十ヶ町に人形山車が登場するなど変遷を経る。江戸時代から「小江戸」と呼ばれた川越では祭りも江戸神田明神の神田祭など天下祭の影響を強く受けており、幕府の影響を色濃く受けた天下祭が東京では明治維新以後に新政府によって解体され山車が無くなって神輿中心の祭りに変貌した現在、江戸天下祭の伝統が今日でも最も生きている祭りの1つである。第二次世界大戦後、旧十ヶ町以外の旧武家屋敷地域の町会や駅周辺の新興町会が参加し、山車の数が増えた。】だそうですよ!
   
山車の一つひとつが興味深いです。
神社も祭り一色です。
そして,この界隈は,昔ながらの蔵などが並んでいる「小江戸」で・・・その他古い建物も多いようでした。
江戸情緒・・・かどうかは分からないですが,とにかくこの日は,祭りで沸き立っていました。
町内ごとに,山車を出して・・・それぞれのお囃子と踊りがあって・・・でしょうか!
曳いて歩く様です。
【川越まつりの特徴として、氷川神社の神幸祭の付け祭りが発展したものが現在の川越まつりであり、関東では数少ない山車のお祭りである。現在、神田祭や三社祭などに見られる神輿のお祭りではない。山車の曳き回しと山車の舞台上での囃子の演奏がされる。「川越まつり参加の山車」は29台存在する。町内の象徴であり神が天降る座である山車のほとんどは三層、人形上下、枠上下型の江戸型(江戸系川越型)で、車輪は四ツ車と三ツ車である。二重鉾の最上部には山車ごとに異なった人形を飾りつけ、人形の名前が山車の名前にもなって呼ばれることが多い。人形は神話、民話、徳川幕府と川越藩にちなんだ人物などから題材が選ばれている。明治以前に作られた人形には仲秀英、原舟月などの江戸の名工の作品が多く残る。多くの山車が廻り舞台になっているのも特徴である。また、囃子は神田など江戸からの囃子(江戸囃子)の流れを汲み、山車ごとに乗り込む囃子連が決まっている。現在では山車を所有している町内の中に囃子連が存在することが多いが、かつては近郊の農村部の囃子連が乗っていた。川越まつりが毎年開催されるようになってから山車所有町内の中に囃子連の発足が始まった。現在でも仲町の山車に乗るのは中台囃子連、志多町は府川囃子連などの旧町内と郊外の町の囃子連という形も残っている。曲目は「屋台」「四丁目」「ニンバ(インバ、ミンバ)」「鎌倉」などがあり「天狐」「おかめ」「ひょっとこ(もどき)」「獅子」などが舞う。それぞれの山車は、毎年15台前後がまつりの際に曳き回される。山車をださない年を「陰祭(かげまつり)」ということもあり、会所(各町会が設ける神酒所。神をお迎えする祭り宿)のみ設営する。毎年参加する町もある。過去に「市制施行80周年」の時などには、29台の山車が曳き回された。】だそうです。
確かに,すごかったし,山車は面白かった!

それで・・・ギリギリ・・・午後のセッションには間に合いました。



さて,サンライズのお陰で川越には結構早く到着でした。研究会前に散策です。

まずは,浅間神社です。
関東には,こういう富士信仰が多いですね!
そしてどこにも溶岩跡・・・確かに,富士山は火山で爆発したのですよね!
境内にもいくつか小さな社がありました。
そしてここは古墳だった様です。
確かに,小高くなっています・・・山からは結構,離れているのに・・・。

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続いて愛宕神社です。
あれまぁ・・・ここも古墳だそうです。
愛宕神社も,結構,各地にありますよね!。これも関東かしら・・・・・?
ここの奥には,延命地蔵尊がありました。
300年ほど昔に建立ですね!

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さて,この下に,仙波河岸史跡公園が広がっていました。
   
【「川」を利用し、江戸時代の川越は水運が発達していました。新河岸川に「舟運」(しゅううん)を起こし、 大消費地である江戸へ物資を運ぶ役割を果たし、商人のまちとして大きく発展しました。この河岸の中で、明治になってから最後に開設された仙波河岸跡に、平成16年5月「仙波河岸史跡公園」が開園しました。昔この場所には「仙波河岸」という河岸場がありました仙波河岸ができたのは明治の初めころのことです。これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」といわれているものです。】だそうです。
緑があって,水があって・・・憩いです。
犬の散歩の人とか,チャリの小さな兄弟とか・・・。
まだ,秋の気配・・・というよりは,丁度,しのぎやすいってイメージの緑達です。
池の大きさの割に沢山の水鳥で・・・びっくりしました。
結構,木立も深く・・・すぐ横に幹線道路が走っているのに,ちょっと別世界って感じでした。
まだ少し秋には早いってこの季節もいいですね,緑を名残惜しく感じます。

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さて,幹線道路の下をくぐると氷川神社です。
今日の祭りの準備なのですね,法被姿の人たちが集まっていましたし。。。。山車も出番に備えています。
   
というか,ここにお参りしたのは,研究会の前で,あんなに大きな祭りとは思ってなかったのですが・・・・。
なんか,地図で神社が多いなぁって感じてもいましたが,こういった祭りの伝統でしょうか・・・。
【氷川神社は、埼玉県川越市宮下町にある神社。太田道灌以来、川越の総鎮守とされ歴代川越藩主の篤い崇敬を受けた。関東三大まつりで国の重要無形民俗文化財である川越祭り(川越氷川祭)は氷川神社の例大祭である。 敷地内に、結婚式場である氷川会館がある。埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社と区別するため、川越氷川神社と称されることもある。なお、川越市内に氷川神社は当社を含めて14社ある。素戔嗚尊・奇稲田姫命・大巳貴命・脚摩乳命・手摩乳命。2組の夫婦神が鎮座していることから縁結びの神様として信仰されている。】ですもの!
【歴史:533年(欽明天皇2年) 入間川で夜な夜な光るものがあり、これを氷川神の霊光だと捉え、当地に氷川神社を勧請したと伝えられる。1457年(長禄元年)河越城を築いた太田道灌は当社へ詣で、和歌を残している。『老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪』川越藩歴代藩主の崇敬を受け、酒井忠勝、堀田正盛、松平斉典が社殿造営を行った。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社である。1948年(昭和23年) 境内より祭祀用の石剣が発掘され、創立年代が伝承の通りであることが立証された。】だそうです。
さて,研究会に向かいましょう!